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日本ボディビル界の生ける伝説「誰も知らない小沼敏雄」 学生時代編

ミスター日本14回優勝という、今後誰も成し得ないであろうという高みに身を置く小沼敏雄選手。そんな小沼敏雄選手のこれまでの歩みを紹介する。

[IRONMAN2014年8月号より]

いじめられていた少年時代

IM 小沼選手はボディビルを開始する前は体が弱かったとか。

小沼 そうなんです。特に心臓はもともと悪かったようで、小学生のころは医者から運動制限されていて、体育の授業でも校庭を走るのは1周だけと決められていました。父親は51歳のときに心臓病で亡くなりましたし、遺伝的に悪かったのかもしれません。

IM ご兄弟は?

小沼 5歳上の姉と3歳上の兄がいて私は末っ子でした。体は小さかったけれど、比較的活発な小学生だったと思います。ガキ大将タイプといいますか、同級生たちを引き連れていつも遊んでいました。

IM 昔の月刊ボディビルディング誌の特集「小沼敏雄物語」ではいじめられっ子だったとありました。確か1993年1月号です。

小沼 それは中学生のときからです。あるとき同級生の親御さんから自宅に呼び出されて、こっぴどく叱られたことがあったんです。当時は同級生を巻き込んでいろいろ悪さしていたんです。それで親御さんが激怒して、そのときの形相や口調が本当に怖くて。しかも相手の家だからどこにも逃げられないという恐怖。それ以来、学校で誰とも話せなくなり、無口になってしまいました。

IM 完全にトラウマになってしまったのですね……。

小沼 気付けば、自分があれこれ指図していた同級生からも「こいつしゃべらないぞ」と笑われたり、物を隠されたりするようになりました。ガキ大将から一転していじめられっ子になってしまったのが中学時代です。なにかあると「チビ、チビ」とバカにされていましたね。いい思い出がないので、当時の写真は一枚も持っていません。中学のクラス会にも一度も参加したことはありませんし、同級生の名前も覚えていないですね。

IM 身長はどのくらいだったのですか? 今の小沼選手からすると「チビ」といわれても想像がつきませんが……。

小沼 身長は150㎝あるかないかくらいでした。これは遺伝ではなく、食事の好き嫌いが激しくて、まともなものを食べなかったのが原因だと思います。野菜もご飯も肉も苦手。特に肉はゴムみたいで大嫌いでした。母親がせっかく作ってくれた食事も食べず、スナック菓子ばかり食べていました。成長期には最悪な食生活でした。

着替える前にパンプアップ

IM 体を鍛えることと無縁の中学時代から、肉体改造に興味をもったきっかけはなんだったのですか?

小沼 「バカにされたくない」「強くなりたい」という思いからです。高校生になっても体重は50㎏しかなく、見た目はひ弱そのものだったので、強くなればバカにされないと思ったのです。当時ロイヤル小林という強打を売りにするプロボクサーがいて、肩とか胸の筋肉の迫力がすごかったんです。それをTVで見て、ボクシングをやればああいう体になれるんだと思い、ボクシング部に入部したんです。

IM ウエイトトレーニングも同時に始めたのですか?

小沼 ウエイトトレーニングは高校3年からです。若いからボクシングの練習だけでも多少筋肉もついてきて、高校1年のフライ級から2年はバンタム、3年ではフェザーと階級を上げていきました。そこでもっとパンチ力を上げたいと思い、ウエイトトレーニングをやり始めました。自宅にバーベルセットを買ってもらい、毎日トレーニングしていました。

IM いじめはもうなくなったのですね?

小沼 すっかりなくなりました。むしろ高3になると、校内で「強そうなやつがいる」とうわさされるようになりました。そのころからボクシングより、トレーニングのほうが楽しくなっていきました。やればやるほど筋肉がついてきて、前より肩や大胸筋が大きくなったぞ、と自覚できるのが楽しかったですね。

IM トレーニングに目覚めたわけですね。

小沼 学校では体育の時間が楽しみでした。教室で着替えるときに上半身裸になるじゃないですか。そこで「おお!」と言われるのが楽しくて。いつも着替える前に廊下の隅でパンプアップさせてから着替えていました。パンプアップなんて言葉は当時知りませんでしたが、血流をよくすることで、大きく見えることに気付いていたんです(笑)。2年間で体重32㎏増!

IM 大学ではボクシングをすっぱりやめたそうですね。

小沼 「強くなりたい」という目的でやっていたボクシングでしたが、人を殴るとか、打ち負かすということがやっぱり性に合わなかったんです。格闘技を見るのは今も好きですが、これは「自分がやるものではないな」と思ったのです。

IM 大学に入ってからはボビルひと筋ですか?

小沼 そうです。当時あった田端トレーニングアカデミーに通い、全身を2分割にして週6日トレーニングしていました。もうコンテストに出ようと決めていたので、まずは体重を増やそうと、なんでも手当たり次第に食べていました。

IM 好き嫌いは?

小沼 中学時代がうそのように、なんでも食べるようになりました。それまでは食に対する関心がなさすぎたんです。筋肉をつくるためには肉も野菜もなんでも食べないといけません。ボディビルを始めたことによって、体に良いものを食べようという意識に変わりました。高校3年のときには体重57㎏だったのが、大学2年のときには90㎏まで増えました。身長も大学卒業するころには175㎝まで伸びました。

IM 体重33㎏増はすごいですね。主に食べていたものは?

小沼 肉ですね。豚のバラ肉は安かったので、脂も気にせず詰め込んでいました。食べ放題にもよく行きました。ずっと胃が苦しい状態でしたのでエビオスは欠かせませんでした。

IM コンテストデビューでは減量に相当苦労したそうですね。

小沼 大学2年のときに関東学生選手権に出場しました。さあ絞るぞということで、炭水化物を一切とらない、いわゆるノーカーボダイエットをやりました。体重70㎏まで20㎏も落しましたが、後半はもうふらふら。20㎏落とした割に全然絞れていませんでした。それでも優勝はできましたが、当時は周りもそんなにレベルが高くなかったのです。私の大学は学連に入っていませんでしたので、学連所属外の学生が出場できるオープンという枠で出ました。関東学生は2年から4年まで3回優勝することができました。

IM 学生時代のライバルはいたのでしょうか?

小沼 学連の部で出ていた法政大の高西(文利)さんです。私はオープンの部でしたので競うことはありませんでしたが、同じカテゴリーでしたら負けていたと思います。高西さんとはミスター日本でも何度も戦っていますし、ライバルとして思い入れのある方です。

留年したことが吉と出た

IM 大学で就職活動はしていたのですか?

小沼 工業化学系の会社の内定をもらい、あとは卒業するだけでした。就職して数年は試合に出られないかもしれないと覚悟していました。でも4年後期の物理化学という1教科を落として留年してしまったんです。

IM 就職は取り消しになってしまったのですか。

小沼 卒業できないから仕方ないですよね。それからはアルバイト生活です。化学肥料を運ぶハードな肉体労働でしたが、バイト代はよかったですね。あの当時で1日1万円以上もらっていましたから。次々人がやめていくようなきつい仕事でした。

IM トレーニングに支障は出なかったのですか?

小沼 いつも疲れていて駅のベンチで30分くらい居眠りしてからジムに行っていました。屋外の仕事でしたが日焼けもできるし一石二鳥だと思ってやっていました。

IM トレーナーになったきっかけはなんだったのですか?

小沼 田端トレーニングアカデミーが閉店になり、西日暮里にワールドトレーニングセンターというジムができるという話になって、瀧元信男オーナー(現在は東京都連盟顧問)からジムのコーチをやってみないかといわれたんです。

IM そこから小沼選手のトレーナー人生が始まったのですね。

小沼 そうです。留年中でしたが、1教科だけとればよかったので、毎日トレーニングして、ジムでトレーニングを教えるという日々でした。留年して内定取り消しになってしまいましたが、そのおかげで人生ががらりと変わりましたね。コーチという仕事に出会えたし、ボディビルに打ち込む生活ができるようになったのです。

次回はミスター日本で優勝するまでの道のりを紹介する

小沼敏雄(こぬま・としお)
1959年1月2日生まれ。埼玉県出身。
日本ボディビル選手権14回優勝という金字塔を打ち立てた、日本ボディビル界の生ける伝説。世界選手権にも幾度となく挑戦し、一般の部では7位が最高だったものの、2002年世界マスターズボディビル選手権40歳以上の部でついに世界一に輝いた。仕事はジムのトレーナー。大学在学中から現在までの33年間、一貫してジムでトレーニングを教えている。アルバイト時代のワールドトレーニングセンター、その後就職した中野ヘルスクラブを経て、現在はゴールドジムのアドバンストレーナーとして指導を行っている。

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